毛皮リフォーム |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) いまでこそ日本も、毛皮が秋冬ファッションの代表として |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) | |
日本の毛皮ブーム 大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) にわか成金が続出した。お金を手に入れた男性は、和服で外出するときには ラッコやカワウソの毛皮をつけた外套を着ました。ラッコやカワウソの毛皮が 当時、最高のステータスだった。続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) 日本国内でシルバーフォックスのマフラーが流行しました。 このころから男性用の実用毛皮から女性用のファッション毛皮の歴史が 始まりました。 その後、日中戦争、第二次世界大戦と、毛皮業界には 厳しい時代がつづきました。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) 昭和34年に皇太子殿下のご成婚があり、美智子妃殿下がミンクのストールを お召しになったことをきっかけに、ミンクのストールは爆発的な人気商品と なっていきます。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) 毛皮のマフラーの販売を始めました。毛皮店の数と傘店の数は比べものになりません。 日本中で毛皮が販売されるようになりました。 当時の人気商品は、フォックスの マフラーで顔と足がついたボアと呼ばれるマフラーでした。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) 新しい色や品質の良いものが安定供給されるようになりました。フルスキンミンク (全面ミンク毛皮)のジャケットが面白いように売れました。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) 第7期は、昭和60年ごろ(1985)のシェブロンミンクブーム 低価格でミンクコートが供給されました。ミンク毛皮とレザーと交互に 縫い合わせて模様を作り出した加工方法です。レザーを使う分、ミンク毛皮の 使用量が少なくなり価格も20万~40万位でした。全部ミンク毛皮で作った コートが80万~150万しましたので大人気商品になりました。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) ニュース報道で、雅子さまのお母さまが当時貴重だったブルーアイリスミンクの コートを着ていたことから、ブルーアイリスミンクが大人気となり品薄になりました。 ブルーアイリス人気が2~3年続きました。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) いうようなミンク人気が続きましたが、少しずつ飽きられてきていた時期 だったかもしれませんそのような時に、毛皮の毛を刈るという加工方法が 登場しました。 シェアード加工されたミンクは、ベルベットのような光沢で、 日本中の毛皮ファンのあこがれのコートになりました。200万~300万する シェアードミンクがどんどん売れました。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) テープ状に加工した毛皮をネットに編み込むニッティング加工の特許が切れ、 各メーカーが新作を発表し大流行しました。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 ブームになりました。エコというと環境に良いように聞こえますが、フェイクファーは 石油製品ですストローと同じでマイクロプラスチック問題を引き起こす素材です。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 トラブルも増えています。 写真と商品が違うとかTVの画像のような 毛並みでないとか購入したが袖丈を短くすることもできないとか、 ボタンがとれたが付けなおすこともできないとか、売るだけの メンテナンスができない販売店が増えているように思います。 続く |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 (毛皮の本より) できるお店をお選びください 大変に浅いので、毛皮を扱うかたも買われるかたも、日本独自の毛皮の歴史を 作って行くべきだと考えます。おわり |
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毛皮リフォーム専門店 (毛皮の本より) 毛皮製品の歴史 1 裸同然で暮らしていた人間の祖先が、寒さから身を守るために、食べるために 捕まえた動物の毛皮を防寒衣服として利用するのを思いついたのが、 人類にとっての衣服の歴史のはじまりです。 |
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毛皮リフォーム専門店 (毛皮の本より) 毛皮製品の歴史2 『旧約聖書」の創世記の中で、エデンの園の中央にある知恵 エデンの園から追い出した」とあります。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史3 (毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史4 (毛皮の本より) インドに遠征したアッシリアのセラミス女王は、戦利品として 8000枚のトラの毛皮を持ち帰り、バビロン宮殿の床に敷きつめた ということです。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史5(毛皮の本より) 知られています。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史6 (毛皮の本より) 17世紀のヨーロッパでは、ビーバーの毛皮が珍重されました。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 7 (毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 8 (毛皮の本より) 一つとして毛皮が用いられるようになりました。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 9(毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 10(毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 11(毛皮の本より) 日本の毛皮 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 12 (毛皮の本より) 日本の毛皮 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 13(毛皮の本より) 日本の毛皮 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 14(毛皮の本より) 日本の毛皮 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 15(毛皮の本より) 日本の毛皮 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 16(毛皮の本より) 戦争と毛皮 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 17(毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 18(毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 19(毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 20(毛皮の本より) | |
ハリウッド映画の影響 昭和にはいってから、日本でも女性がキツネや |
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タヌキのマフラーをするようになりました。昭和の初めころ、無声だった |
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映画が音声入りのトーキーとなり、ハリウッド映画が全盛をきわめ、有名な | |
スターたちが毛皮を身につけているのを見て女性が毛皮を身に着ける様に | |
なりました。 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 21(毛皮の本より) |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 22(毛皮の本より) 日本の毛皮店 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 23(毛皮の本より) 日本の毛皮店 |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 24(毛皮の本より) 日本の毛皮店 日本でも毛皮専門店が100年以上の歴史をもつようになりました。 それ以外の婦人服店・呉服店・宝飾店・ホテルなどの展示会で |
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毛皮リフォーム専門店 毛皮製品の歴史 25(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
毛皮は、字のとおり、毛の部分と皮の部分とからできています。 | |
毛皮の毛の部分は、硬く長い刺毛と柔らかく短い綿毛から | |
できています。 通常は、刺毛と綿毛をそのまま使用して、 | |
コートやジャケットを作りますが、毛皮の種類によっては、 | |
刺毛を抜いて綿毛だけにしてコートを作ったり、刺毛と綿毛を | |
短く刈ってジャケットを作ったりもします。 |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 26(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 27(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 |
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毛皮を選ぶときは、刺毛の艶や色だけでなく、綿毛の状態を見る | |
ことも大事です。良い綿毛かどうかの見極め方は、 | |
毛皮の毛並みの下からふっと吹いてみて、上毛が弾力をもって | |
元どおりになれば、その綿毛は良いものと思ってよいです。 |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 28 (毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
毛皮が2000年もの昔から現在に至るまで、さまざまな天然素材や | |
化学繊維のなかで、最高級の衣料用素材として君臨しています。 | |
その理由として第一にあげられるのが、防寒用としての保温力です。 | |
北ヨーロッパや北アメリカ、ロシアでは、おしゃれというより、 | |
防寒のために、毛皮はなくてはならない物なのです。 | |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 29(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
毛皮が防寒に優れているのは、天然素材であること、 | |
そして、密生している綿毛の一本一本のすき間に | |
暖かい空気が留まることで、大きな保温効果を発揮します。 | |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 30(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
保温性の次は、耐久性です。ほとんどの毛皮は、取扱いにさえ | |
注意すれば、半永久的に長持ちしますといってもいいくらいです。 |
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ヨーロッパでは、毛皮のコートを祖母、母、娘と何代にもわたって | |
形を変えながら使用していることは、珍しいことではありません | |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 31(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
毛皮は通気性があり水をはじく実用的な特性があります。 | |
ほとんどの毛皮は、少々の雨や雪にぬれても、刺毛と綿毛が水分を | |
はじいてしまいます。新しい傘のように、きれいな水滴ができて |
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弾いた水滴が落ちて行きます。 | |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 32(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
毛皮は暖かくて通気性に優れているので、汗をかいてもむれずに着心地良く | |
着れるなどの魅力もありますが、第一は、豪華で気品のある美しさです。 | |
毛皮は、独特の光沢と綿毛のやわらかさが魅力です。 |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史 33(毛皮の本より) 毛皮の構造と特性 | |
毛皮の色と模様には、天然の素材のバラエティに富んだ美しさがあります。 | |
刺毛と綿毛の微妙なコントラストや、ヒョウやオセロットなどの美しい | |
斑紋は、フェイクファーやエコファーなど、化学繊維ではつくり出すことは | |
できません。天然素材ですから同じ種類のものでも濃淡が | |
違っていたりして、「決して同じ毛質のコートはない」のです。 | |
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革・毛皮専門店 毛皮製品の歴史(毛皮の本より)34 毛皮の構造と特性 | |
養殖ミンクの長い歴史のなかで、ミューテーションミンクの | |
品種改良のおかげで、ミンクだけでも40色の種類があります。 | |
ミューテーションで作りだせない色は、漂白や染色技術の発達で | |
作れるようになりました。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史1 (JFA50年史より) |
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「ふるき皮ぎぬ」からはじまる。 | |
古代から中世まで聖書の創世紀に「神、アダムとその妻に皮衣を | |
作りて、彼らに着せ給えり」と書いてある。毛皮は人類の誕生とともに | |
登場した、最初の衣服であった。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史2 (JFA50年史より) | |
時代が進むにつれて、毛皮は防寒の機能と同時に、 | |
権威の象徴として利用されるようになる。古代エジプトでは、 | |
ヒョウの毛皮が王や高僧のステイタス·シンボルと | |
なっていた。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史3 (JFA50年史より) | |
ギリシア時代に毛皮の加工や取引が活発に行われる | |
ようになったが、ローマ時代に入ると、毛皮を着用する | |
北方の人々が荒っぽい人たちと見る傾向が出てくる。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史4 (JFA50年史より) | |
ローマ帝国が滅亡し、ルネッサンス時代を迎えると、 | |
機能面のほかに装飾面、社会的シンボルとして毛皮が | |
見直され、ヨーロッパの王侯·貴族は競ってテン、 | |
キツネ、ラッコ、アーミンなどの毛皮をまとう。中でも | |
ビーバーが大流行し、これが後に、北米大陸開拓の | |
原動力となる。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史5 (JFA50年史より) | |
世界で最初に毛皮の利用価値を高め衣料として発展させたのは、 | |
アジア、とくに中国であるとされている。 | |
東方遠征したマルコ。ポーロは、東洋人が毛皮を実に巧みに | |
衣服や室内用として活用しているのに驚き、そのことを | |
『東方見聞録』 に記している。、その後中国で発達した毛皮の | |
利用法がヨーロッパにもたらされた。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史6 (JFA50年史より) | |
十三世紀くらいまで毛皮貿易の中心地はビザンチンとバグダッドだった。 | |
毛皮商は、両都市からアジア、シベリア、黒海沿岸に出掛けて毛皮を | |
集荷した。 当時、毛皮の一大集散地を形成していた両都市には、 | |
交易を通じ中国から毛皮文化の影響も受けてきたのである。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史7 (JFA50年史より) | |
毛皮文化のわが国への波及 | |
中国の毛皮文化は日本にも波及した。その歴史は意外に古く、 |
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聖武天皇の時代(730年)には中国からの答礼品の中に | |
黒テン=セーブルがあったという記録がある。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史8 (JFA50年史より) | |
また平安時代の『宇津保物語』『源氏物語』に “ふるき皮ぎぬ” | |
という言葉が出てくる。“ふるき”は蒙古語の「BLUGA」(セーブル)の | |
なまったものと解釈でき、セーブルが平安時代までには外国から | |
伝わっていた可能性を示している。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史9 (JFA50年史より) |
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中世に入ると、モンゴルの侵略によってビザンチンとバグダッドが没落し、 | |
代わってドイツ。ハンザ同盟が毛皮の集散地を握る。 | |
ロシアのノブゴロドに集荷された大量の毛皮がハンザ同盟の広範なルートを | |
経てヨーロッパに流入した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史10 (JFA50年史より) | |
毛皮のヨーロッパ流入に伴い、毛皮にさまざまな工夫を | |
凝らすようになり、諸国の宮廷を中心に、現代でも通用するような | |
斬新なデザイン、華麗な毛皮ファッションが登場するようになる。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史11 (JFA50年史より) | |
毛皮獣の中で、アーミンは王族だけに着用が許されたことから | |
ロイヤル·ファーと呼ばれた。フランス革命を経てナポレオン時代に | |
入ると、華美な 流行は姿を消し、毛皮の新しい利用法として、 | |
アストラカンやクマなどが軍需用(防寒着など)に活用されはじめた。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史12 (JFA50年史より) | |
わが国では武士が鞍覆い、行騰、敷物に使った。なむかばきかでも | |
トラ、ヒョウの毛皮は将軍家、御三家、クマは判官や弾正など | |
と官位によって区別されて使用され、ヨーロッパと同様に |
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権威と富を象徴するものであった。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史13 (JFA50年史より) | |
江戸時代末期、米国やロシア、欧州の冒険家たちが | |
カムチャッカ半島や日本の北辺の海や島に毛皮を求め、 | |
大船隊を仕立てやってくるようになった。樺太や北海道で | |
獲られる毛皮も交易の対象となった。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史14 (JFA50年史より) | |
毛皮が産業となりはじめたのは明治中頃からである。 | |
日本人は農耕民族であり、仏教の影響で禽獣殺傷を | |
嫌って明治になるまで獣肉を食べる習慣がなく、 | |
また気候が温暖であったため衣料として毛皮を | |
利用することが定着しなかった。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史15 (JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史16 (JFA50年史より) | |
毛皮産地は拡大の一途をたどり、貿易業、加工業は | |
ますます発展し、ヨーロッパ各地で競売市場が | |
立つようになった。ヨーロッパ諸国の中には原皮を輸入し、 | |
加工製品を一輸出するという国も出現しはじめた。 | |
この傾向は、十九世紀半ばからの毛皮養殖産業の | |
興りと相まって二十世紀初めにはますます強まった。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史17 (JFA50年史より) | |
当時の主要毛皮生産地は、北半球では米国、ロシア、 | |
カナダ、中国およびヨーロッパ諸国で、ロンドン、 | |
パリ、ウィーン、ライプチヒで盛んに毛皮競売市場が | |
開催され、各国の手毛皮商人、加工業者が集まった。 | |
南半球では、オーストラリアでウサギ、南米で | |
ヌートリア、カワウソ、アフリカでラムが、大量に | |
生産された。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史18 (JFA50年史より) | |
1928年(昭和3)の統計資料によると、世界の毛皮生産額は | |
原皮が約八億円で、生産者(猟師、飼育業者)、原皮商 | |
(下買人、生皮買入商、毛皮貿易商、オークション会社)、 | |
毛皮加工業(蘇製業、染色業、屑皮加工業、筆毛製造業、 | |
毛皮製造業、毛皮縫製業)、毛皮小売商(毛皮衣装店、 | |
デパート毛皮部、デザイナー)、毛皮屑問屋、さらに毛皮 | |
付帯産業=機械商(ミシン、なめし、縫製加工機械)、染料、 | |
薬品製造業、冷蔵庫、その他の従業員の生業を成り立たしめ、 | |
最終製品市場は推定で約五十億円となっている。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史19 (JFA50年史より) | |
世界最大の消費地、米国の1936年(昭和1)の毛皮輸入額は | |
八千百六十万(当時の円換算レートで約三億円) | |
ちなみに昭和記年度の日本の国家予算は二十八億円である。 | |
当時の日本の毛皮輸出額は三百万円台だった。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史20 (JFA50年史より) | |
わが国の毛皮産業の夜明け 明治から戦前まで | |
輸出からはじまり軍需用晶へ | |
わが国の毛皮産業は輸出からはじまった。もっぱら | |
毛筆用として、イタチやタヌキなどの野生獣を集荷 | |
していた江戸末期の毛皮商人は、明治初期には北海道から | |
カムチャッカ半島方面へ、北へ北へと毛皮を求めるように | |
なる。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史21 (JFA50年史より) |
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大量に集荷できるようになったイタチ、タヌキ、ウサギ | |
などの毛皮を横浜や神戸から欧米に輸出し、1890年 | |
(明治23)頃からは多大な外貨を獲得するようになった。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史22 (JFA50年史より) | |
しかし、輸出産業としての着実な歩みも、ロシア革命に | |
より北方からの毛皮の集荷が思うようにいかなくなり、 | |
大正期は頓挫する。 | |
一方で、明治政府の欧化政策により華族や軍人たちの |
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間ではじまった洋装化は庶民にも広がり、国内でも | |
毛皮が使用されるようになる。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史23(JFA50年史より) | |
毛皮需要が高まる大きなきっかけとなったのは日清 | |
戦争(1894~5年)、日露戦争(1904~5年)だった。 | |
軍需用品。防寒具として毛皮が用いられるようになる。 | |
軍需用となると大量の毛皮が必要だ。安価で、その割には | |
表面積が広く、集荷しやすく、また食肉としても活用できる | |
ウサギがクローズアップされた。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史24(JFA50年史より) | |
チンチラウサギは織物にも利用された。 | |
洋装化の普及に伴い、「和洋折衷」ファッションが | |
男性の間で流行した。大正時代半ばには男性用トンビ | |
(合羽)という和装コートが流行し、その衿に毛皮を | |
一用いることが華族·金持ちのステイタス·シンボルと | |
なった。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史25(JFA50年史より) | |
オーバーコート、トンビの衿皮の流行は昭和 |
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初期に入っても続いた。ちなみに衿皮の単価は | |
ラッコが350円以上、カワウソが20~100円、 | |
オットセイ12円である。その頃の大卒初任給が | |
50円ほど、大企業の課長クラスの月給が100円ほど。 | |
いかに高価であったかがわかる。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史26(JFA50年史より) | |
昭和元年は女性ファッション元年 | |
1926年(昭和元)には、わが国で初めて女性のボアや | |
ショールにキツネやタヌキを用いたものが作られるように | |
なる。また外交官婦人や芸能人が毛皮のコートを着用するように | |
なったが、非常に高価で、一般人たちが買えるようなものでは | |
なかった。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史27(JFA50年史より) | |
1930年(昭和5)頃から、ボアを先駆として大都市の間で | |
服飾毛皮の流行が本格化した。まだ毛皮のコートは高価で | |
需要は限られたが、ボアやショールは広く普及した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史29(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史30(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史31(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史32(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史33(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史34(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史35(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史36(JFA50年史より) |
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十九世紀に入り、米国の狩猟者の中に、野生のキッ | |
ネを捕らえて飼育し、冬の毛皮の最盛期に屠殺するこ | |
とが行われはじめた。これが養殖産業のはじまりで、 | |
まずキツネがクローズアップされた。養殖はなかなか | |
実用にはいたらなかったが、1860年、カナダの | |
オンタリオ州ではじめて銀黒キツネの養殖がはじまり、 | |
1886年、カナダの大毛皮会社「ハドソン。ベイ商会」 | |
のストラスコナ卿が、このキツネを飼育中に繁殖させ | |
ることに成功した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史37(JFA50年史より) | |
1886年、カナダの大毛皮会社「ハドソン。ベイ商会」 | |
のストラスコナ卿が、このキツネを飼育中に繁殖させ | |
ることに成功した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史38(JFA50年史より) | |
その後、同州プリンス。エドワード島では、 | |
競って野生キツネを捕らえて飼育するようになり、 | |
1894年頃から毛皮獣の養殖産業が勃興する。 | |
同島には1910年には十二の養狐場があったが、 | |
飼育者たちは飼育方法を秘密にし、もっぱら種畜の |
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販売を行い、大いに収益を上げていた。 | |
やがて飼育法が公開されるようになり、養殖熱は世界的な | |
高まりを見せるようになった。 | |
毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史39(JFA50年史より) | |
わが国の養殖はウサギから | |
わが国では、日清·日露戦争後、軍需用として大量の | |
ウサギが必要となり、ウサギの養殖がはじまった。 | |
1915年(大正4)世界的なキツネブームを背景に樺太庁で | |
養殖を試みたのを手はじめに、翌年農林省と日魯漁業が | |
共同で青キツネなどを捕獲して千島諸島で飼育を開始し、 | |
その後カナダから種畜を導入し、北海道、樺太を中心に | |
銀キツネの養殖が盛んになり、第二次世界大戦の終わりまで | |
続いた。https://twogod.com/index.html | |
毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史40(JFA50年史より) | |
銀キツネは、第二次世界大戦前は毛皮の花形種となり、 | |
世界の生産は百二十万枚を超えた。わが国からは年間 | |
約三万枚の原皮が当時の世界の毛皮市場の中心地ロンドンに | |
輸出されていた。銀キツネの全盛期に、ノルウェーで、 | |
銀キツネからプラチナキツネが作り出された。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史41(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史42(JFA50年史より) | |
ところが、銀キツネが流行しはじめたため、ミンク | |
飼育は伸展せず、停頓状態になった。ミンクは野生種 | |
そのままを養殖したものに執着していたため、毛皮の | |
価格も低く、大きな収穫が得られなかったためもあっ | |
しかし、戦時から戦後にかけて、ミューテーション | |
ミンク(シルバーブルーミンクが中心)に重きを置いて | |
養殖されたために、天然産のミンクを退けて現代 | |
の流行の先端に立つことになったのである。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史43(JFA50年史より) | |
この当時、世界では数量において野生種の毛皮は全 | |
毛皮の約七十五パーセントを占めていたが、流行を支 | |
配しているのは養殖毛皮であった。 | |
ミンクとカラクールが中心だったが、ヌートリア、 | |
米国におけるチンチラ、また各国のウサギなどもかなりの | |
数量に上った。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史44(JFA50年史より) | |
毛皮産業の胎動期 第二次世界大戦後:ジャパニーズ·ミンク"が売れる | |
わが国では戦時下、毛皮は軍需用として生産された | |
ため、1945年(昭和20)の終戦により需要はまったく | |
なくなった。毛皮市場は空白が続くことになる。 | |
戦後しばらくは、ウサギを主体に衿巻きや羽織下、 | |
チョッキなどが作られ、闇市で売られた。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史45(JFA50年史より) | |
その後、進駐軍やその家族を対象にイタチ、テンを | |
使用した毛皮製品が売れはじめ、とくにイタチは | |
"ジャパニーズ。ミンク。として珍重された。 | |
米国人は東京や横浜の毛皮商店でコートを買った。 | |
またPX、あるいは横浜や三沢など基地に近い都市で | |
の毛皮市は大変なにぎわいをみせた。 | |
1946年(昭和2)頃でイタチ原皮は一枚70~150円。 | |
コート一着で100~120枚使用し、店頭では5万~7万円で | |
買われた。1949年(昭和2)には同300~500円に高騰し、 | |
コートは10万~12万円で販売された。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史46(JFA50年史より) | |
進駐軍向けの商売は物品税がかからず、大きな利益一 | |
が上がり、1950~1951年頃は朝鮮戦争特需景気で | |
空前のイタチブームとなった。 | |
一九五九年(昭和弘)現美智子皇后の御成婚は、日本の | |
毛皮史にとってエポックメーキングとなった。美智子妃が | |
身に付けていたミンクのストールは、ミッチーブームに | |
乗って女性の購買心理を刺激し、これを契機に女性用毛皮が | |
売れはじめた。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史47(JFA50年史より) | |
シルバーブルー出現で市場は一変 | |
ミンクの歴史は「シルバーブルー」の出現によって一変した。 | |
毛皮産業史の流れの中でミンクは機軸をなしているが、 | |
養殖ミンクになっても毛質は野生種と変わらず黒に近い褐色だった。 |
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米国では長年にわたり、品種改良の努力が続けられ | |
ていた。1931年(昭和6)米国ウイスコンシン州のある | |
養殖場で突然変異種であるシルバーブルーの品種が出現した。 | |
このミューテーション。ミンクの登場により、養殖ミンクの | |
形態および毛皮産業は大きく転換することになる。 | |
シルバーブルーからもっと色の美しいミンクが作られ | |
サファイアミンクと名付けられた。 | |
品種改良はさらに進められパステル、ホワイト、ダークなど | |
約四十種の毛色のミンクが掛け合わせによって出現した。 | |
これによりミンクは世界で一大ブームを巻き起こし、 | |
毛皮市場発展に貢献した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史48(JFA50年史より) | |
北海道で日本産ミンクの飼育はじまる |
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1953年(昭和2)北海道でミンクの養殖が開始 | |
され、わが国の毛皮産業の再生がはじまった。 | |
当時、海外はミンクを中心に動いていた。高碕達之 | |
助氏が渡米した際、その状況を目の当たりにし、帰国 | |
後ミンクの養殖を商社や水産会社に勧めたところから | |
はじまったようである。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史49(JFA50年史より) | |
三井物産は札幌郊外に飼育会社「東邦ミンク」を設立した。 | |
また水産会社も「ミンクの毛皮は一万円」というキャッチ | |
フレーズのもとにミンク養殖に乗り出した。 | |
ちなみに1961年(昭和36)頃の大卒初任給は一万三千円 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史50(JFA50年史より) |
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養殖業者は、帯広畜産大学をはじめ獣医·畜産科の学生を | |
採用し、人材の確保に努めたが、飼育は一朝一夕に | |
できるものではなく、非常に苦労した。米国の文献、 | |
雑誌から情報を得て日本における飼育法を開発した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史51(JFA50年史より) | |
また米国から技術者を招き指導を受けたりした。 | |
日本にはまだ市場が形成されていなかったので、 | |
ミンクは主に輸出目的で飼育された。いかに日本産ミンクを | |
アピールし、販路を開拓していくかが大きな課題となった。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史52(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史53(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史54(JFA50年史より) |
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2022年 新年カレンダー 寅年 | |
新年は1月6日より営業 | |
1月8日 10:00より初売り | |
中身の見える福袋 | |
11000円 | |
33000円 | |
44000円 | |
55000円 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史55(JFA50年史より) 海外の毛皮が自由に買えるようになった。 自由化された途端に小売り市場に ウサギのブームが巻き起こり、1962~1963年は月当たり平均930万枚を輸入する ほどの人気となった。輸入先はフランスが最も多く、イタリア、スペインと続いた。 その後、フランスがウサギを減産したのに伴い中国からの輸入が増加した。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史56(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史57(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史58(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史59(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史60(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史61(JFA50年史より) 1964年(昭和39)ミンク共販会社は北海道の毛皮業者の |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史62(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史63(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史64(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史65(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史66(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史67(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史76(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史68(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史69(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史70(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史71(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史72(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史73(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史74(JFA50年史より) |
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半面、円高のメリットも出てきた。86年の小売市場は前年比4パーセント | |
増の2700億円にまで回復したが、これは原材料のオークションが底値を | |
示したことに加え円高·ドル安による輸入コストの減少により小売価格が | |
下がったことが大きい。また本物志向のニーズに対応した | |
デザイン提案などが消費者の購入を促した。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史75(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史77(JFA50年史より) フォックス(トリミングが主体)10パーセント、その他30パーセントといった割合。 小売市場は97年で650億円にまで低下。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史78(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史79(JFA50年史より) |
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コンビネーション製品の強化に力を入れた。 | |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史80(JFA50年史より) 衿、袖に毛皮を用いたコンビネライニングコートやリバーシブルーション製品は アパレル製品としてとり扱われ、こなれた価格帯で売られていることもあって 根強い人気を維持している。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史81(JFA50年史より) 単価ダウン、暖冬と、不利な材料が重なって、90年代は毛皮市場は縮小したが アパレル業界における毛皮の扱いは増え、ファッション素材としての毛皮が定着した。 |
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毛皮の歴史 日本の毛皮産業小史82(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 1(JFA50年史より) 戦後、日本は窮乏の極に陥り、経済統制の下、生活物資は極端に不足し、 人々はその日暮らしを強いられた。生活物資がなかった時代に、 隠匿物資として軍が持っていた毛皮が衣料として用いられ飛ぶように売れた。 毛皮産業もまた、重要な輸一出産業の一つとして嘱目され、政府は畜産振興5カ年計画を 打ち出すなど、毛皮業界をとり巻く内外の情勢は急激な展開を見せはじめた。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 2(JFA50年史より) 米国向けに輸出していた。しかし、対米輸出は日米関係の悪化により1939年(昭和14年)頃 から中止せざるを得なくなり、戦後ようやく再開にこぎつけることになった。 戦後は、外貨獲得の必要もあって、政府の要望により国内産の毛皮はこぞって 輸出に回した。輸出するに際しては、毛皮の品質を農林省の検査官が厳重に チェックを行った。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 3(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 4(JFA50年史より) 出席者32名(委任状276名)が発足を決議、「日本原毛皮協会」が誕生した。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 5(JFA50年史より) わが国の毛皮産業に資することなどを決議した。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 6(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 7(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 8(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 9(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 10(JFA50年史より) イタチ60万~70万枚を輸出している。 これ以後、日本産原皮は再び品質に対する評価をとり戻し、 輸出産業として外貨獲得に貢献していく。大興物産、山崎産業、小林桂、長瀬商会などが |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 11(JFA50年史より) また、当時は地方下部組織はなく、地方の会員も直接中央事務局と関わり合うことに なっていたため(地方役員は置いた)、会費の納入、徴収には種々苦労がつきまとった ことが『毛皮新報』から読み取れる。毛皮業界の活性化のための協会の事業計画も、 中央と地方の意思疎通に欠け、円滑に進行しなかった。一例をあげると、1951年~1952年の 事業計画の一つ、「毛皮増産運動」に、組織的に協力できたのは群馬県ただ一県だった。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 12(JFA50年史より) かくして会員は激減した。1950年(昭和25)は |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 13(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 14(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 15(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 16(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 17(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 18(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 19(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 20(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 21(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 22(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 23(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 24(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 25(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 26(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 27(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 28(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 30(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 31(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 32(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 33(JFA50年史より) |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 34(JFA50年史より) |
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1962年(昭和37)毛皮の輸入が自由化され、関税もまた大きな | |
問題となってきた。関税問題は協会発足時から重視してきたが、 | |
同時にジレンマもあった。というのは原皮の関税が撤廃されれば、 | |
なめし・染色・縫製加工業者の仕事は増えるが、逆に製品に関する | |
関税が撤廃されれば、製品価格は大幅に低下し輸入が増大、上記の | |
加工業者の仕事はなくなるのである。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 35(JFA50年史より) | |
つまり毛皮業界でも川上と川下では関税撤廃による影響は異なり、 |
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そのため毛皮業界として見解を一本化することが難しかった。 | |
協会は、大量消費·生産の時代に入ったことを踏まえ、毛皮産業の | |
健全な基盤整備を目指していた。そのため安易に製品輸入に | |
依存する政策は打ち出せず扱いに苦慮していたのが実情だが、 | |
関税問題に関して異なる立場の業者が一堂に会し前向きに | |
話し合う場として「関税問題研究会」を設けた。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 36(JFA50年史より) | |
消費拡大時代に対処し業界の発展に寄与 | |
戦前から戦後の十年間を閉塞の時代とすれば、1960年代からは | |
成長の時代となった。そのきっかけとなったのは、 | |
1962年(昭和37)の毛皮輸入禁止令の廃止である。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 37(JFA50年史より) | |
毛皮市場の成長期に入り、協会は急激な輸入増加に対処するため、 | |
組織部会を強化し、毛皮業界の健全な発展を目指してさまざまな活動を | |
行った。主な事業は次のようなものである。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 38(JFA50年史より) | |
優良ミンク生産奨励 | |
日本ミンク協会が主催する日本産ミンク共進会の | |
最高位受賞者に1970年度から賞状·副賞を授与 | |
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JFAタッグの制定 | |
市場の拡大に伴う消費者の厳しい選別意識のニーズに応え、 | |
毛皮に対する安心と信頼の目安として1977(昭和52)年に | |
JFAタッグを制定、協会の品位と権威に裏付けられた加盟社の | |
信用を表すシンボルマークとした。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 40(JFA50年史より) | |
品質管理の充実と品名の統一 | |
輸入拡大により粗悪品、類似品、グレードとは不釣合いの価格の | |
商品が増えてきたことなどに対処するため、協会は、後述する | |
毛皮に対する消費者の信頼を損ね毛皮商品のイメージダウンを | |
招くとの立場から品質や価格に対する注意を喚起した。 | |
また品名詐称を撲滅するため、1980年(昭和55)「品名統一委員会」を | |
設置し、正しい品名呼称を作成し、これの普及に努めた。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 41(JFA50年史より) | |
最大の事業 宣伝·広報活動 | |
消費者にとって縁遠い消費財だった毛皮は、短時日のうちに | |
身近なファッション·アイテムとなった。半面、毛皮知識の不足や、 | |
毛皮に対する誤認識もあり、協会は消費者に対する情報提供、 | |
PR活動を本格化した。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 42(JFA50年史より) | |
ブームが引き金となりPR活動本格化 | |
輸入自由化により毛皮ブームが起きたのは1963年(昭和38) | |
である。協会は翌年二月第一回全国毛皮業者大会を開催し、 | |
この状況にどう対処するか、業界の今後のあり方を討議した。 | |
大会は非常に有意義に終わり、宣伝事業が最も重要な事業で | |
あると位置付けられ、その実施が決議された。同年、そのため | |
「宣伝委員会」が設置され、次のような事業の実施を決めた。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 43(JFA50年史より) | |
①専門紙への記事掲載と広告出稿 | |
②東京、大阪を中心に車内吊り広告の出稿 | |
③電波媒体·雑誌への広告出稿 | |
会員から「宣伝分担金」を集め、これらの所要経費 | |
に充てることにした。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 44(JFA50年史より) | |
1964年度は500万円程の予算を組み、宣伝活動を展開した。 | |
宣伝は小売り市場の拡大など大きな成果を生み、翌年度は倍増の | |
1000万円の予算を計上した。これ以後、東京毛皮商工業協同組合、 | |
西日本毛皮商工業協同組合と共同で行うことになり、宣伝·広報事業は | |
質量ともに充実していった。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 45(JFA50年史より) | |
1975年(昭和50)頃からは宣伝·広報事業の年間予算は | |
2000万円に拡大し、それに伴い小冊子、絵ハガキ、単行本、 | |
ポスターなど宣伝手法も多彩になっていった。その後は8ミリ映画、 | |
スライド、VTRなどを用いた宣伝も行うようになる。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 46(JFA50年史より) | |
宣伝委員会が推進母体となって、毛皮普及に伴う素材志向から | |
デザイン志向の時代に即応して、「人材の育成」「デザインの高度化」を | |
目的に、1979年から「JFAデザインコンテスト」「JFAジャパンファー | |
コレクション」を十年間継続して実施した。同イベントにより毛皮は | |
ファッション素材·アイテムとして広く認知され、デザインレベルも大きく向上した。 | |
現在は、高感度のデザイン、加工技術の高度化に向けたセミナーの開催、 | |
さらに全国展開する百貨店に新しい毛皮の提案(2000年度は | |
アパレルやデザイナーに毛皮の活用を促すための素材や加工技術の提供、 | |
“シーズンレスファー”を提案)などを行い、毛皮需要の振興を促す活動を | |
行っている。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 47(JFA50年史より) | |
IFTFから宣伝 助成金が得られた | |
IFTF(国際毛皮連盟、本部ロンドン)は毛皮団体の世界組織で、 | |
1975年(昭和50)頃は25カ国が加盟していた。協会は1972年 | |
(昭和47)に加盟している。加盟国からの会費のほかに、毎年各国で | |
行われるオークションのハンマープライスの5パーセントをオークション | |
会社から徴収し、連盟の運営資金、各国の毛皮製品の普及促進活動に対する助成 | |
、アンチファー運動に対する防衛措置のための活動資金などに充てていた。 | |
毛皮の歴史 協会50年の沿革 48(JFA50年史より) | |
1973年(昭和48)から協会は役員を送り込み、1978年(昭和53)に宣伝、 | |
広報活動助成を申請して連盟に働きかけた結果、二万ポンド(約900万円)の | |
助成金を受けることができた。翌年には四万ポンド(約2000万円)が認められ、 | |
宣伝·広報活動は一層強化されることになった。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 49(JFA50年史より) | |
このほか賛助会員制度の下に、サガなどの海外毛皮生産者団体日本代表が | |
賛助会員として加入、情報交換が適宜適切に行われるようになった。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 50(JFA50年史より) | |
ファーファッションの創造へ展開 | |
1970年代初め頃から、協会の加盟各社は毎年ファッションショーを | |
開催するようになった。また、FTFから助成金が得られるようになり、 | |
宣伝 ·広報活動は資金面での支えもあって一段と充実していく。 | |
1970年代後半になると、消費者の本物志向のニーズに対応するため、 | |
ファッション業界、ファッショデザイナーと連携し、新しくファーファッ | 。|
ションを創造し提供する大々的な事業が宣伝活動の核となっていった。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 51(JFA50年史より) | |
主な事業、イベントは次の通り。 | |
「JFAレセプション」(1978年、79年) | |
「ファーデザインコンテスト」(1979~88年、サガファー。オブ。 | |
スカンジンナビア、スワカラ·プロモーション。センターなど協賛) | |
「JFAジャパンファーコレクション」(1980~90年、サガファー。オブ· | |
スカンジンナビア、スワカラ·プロモーション。センター協賛) | |
「JFAファーセミナー」(1982年、83年) | |
「ジャパングッズファッションフェア」(1988年) | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 52(JFA50年史より) | |
毛皮の基本知識の不足からくる消費者対販売業者、 | |
消費者対クリーニング業者·保管業者などのトラブル | |
に対し、消費者保護を前提に鑑定委員会が調査し公正 | |
な判断を下し問題解決にあたっている。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 53(JFA50年史より) |
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毛皮の基本知識の不足からくる消費者対販売業者、 |
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消費者対クリーニング業者·保管業者などのトラブプル |
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に対し、消費者保護を前提に鑑定委員会が調査し公正 |
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な判断を下し問題解決にあたっている。 |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 54(JFA50年史より) | |
1978年(昭和53)には蘇製加工技術の強化、向上を目的に | |
「品質管理委員会」を設置した。同委員会は鑑定委員会の出した | |
報告書に科学的な裏付けを与えることとなり、また「品名統一委員会」も | |
設置し品名の統一に努力した。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 55(JFA50年史より) | |
鑑定委員会、品質管理委員会は日本皮革技術協会に協力を仰ぎ、 | |
委員として北海道大学、東京農工大学、都立皮革技術センターの | |
先生方を招いた。さらに、1985年(昭和60)日本皮革技術協会と | |
共同で「毛皮技術委員会」を設置し、毛皮に関する諸問題に科学的に | |
対応し、解明、研究できる体制を作った。 | |
毛皮の歴史 協会50年の沿革 56(JFA50年史より) | |
さまざまな宣伝活動や、これら各委員会の活動を支援し、さらに | |
本物志向を強める消費者に毛皮に関する情報をより広く、より速く、 | |
直接的に提供するため1989年6月「広報室」を設置した。広報室は、 | |
一般消費者に、より身近にファーファッションを定着させる役割を果たした。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 57(JFA50年史より) | |
広報室内に設けられたインフォメーションセンターは、毛皮の上手な | |
買い方からトラブル処理まで、あらゆる質問に答え、業界と消費者の | |
健全な関係の保持に寄与すると同時に、毛皮イメージの向上に寄与した。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 58(JFA50年史より) | |
狂信的な。動物愛護運動,に対処 | |
1980年代後半、欧米では狂信的な「動物愛護運動」が広がり、 | |
毛皮排斥運動が巻き起こった。動物の権利、動物の福祉を標接する | |
一部の極端な運動家が消費者を扇動し、毛皮業界をはじめとする | |
動物関連産業に非難。中傷を浴びせ圧迫した。 | |
毛皮の歴史 協会50年の沿革 59(JFA50年史より) | |
これにマスコミ、評論家などが迎合し、毛皮産業の実態を歪める | |
誤った情報が氾濫した。毛皮業界が被った影響は甚大で、有名デザイナー | |
企業が毛皮素材のとり扱いをやめるなど、世界的な需要減退の要因と | |
なった。当協会は、「動物愛護運動」の掲げる狂信的なスローガンが | |
消費者の間で誤解を招く恐れがあることを憂慮し、現実の毛皮業界の | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 60(JFA50年史より) | |
1991年(平成3)年に行われた第27回全国毛皮業者大会では、 | |
動物愛護運動の現況が報告され、野生動物の捕獲を禁止した | |
CITES(ワシントン条約)のPRや毛皮産業の正しい知識などの | |
広報活動に力を入れることにした。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 61(JFA50年史より) | |
IFTF(国際毛皮連盟)をはじめとする世界の毛皮団体の広報活動もあって、 | |
過激な動物愛護運動は1990年代の半ばには沈静化していくが、 | |
なお膨大な資金力を駆使し、非現実的な動物愛護キャンペーンを展開する | |
組織も存在し、警戒を緩めることはできない。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 62(JFA50年史より) | |
ちなみに2000年2月には、最も極端な動物権利団体の一つと | |
されるPETA(動物の倫理的な処遇を目指す人々)は、ロンドン | |
ファッションウイークを標的に皮革製品のボイコット運動を | |
開始した。彼らは米国では漁業に反対するキャンペーンも | |
展開している。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 63(JFA50年史より) | |
PETA創立者である動物解放主義者は、「動物も人間も同列」と | |
主張し、動物を娯楽,教育·研究目的に使用したり、商業的 | |
養殖等について一切反対し、あらゆる種類の動物の活用禁止を | |
求めている。1998年にキャンペーンに使用した資金は | |
1400万ドルと言われている。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 64(JFA50年史より) | |
1997年頃から有力デザイナーが再び毛皮を扱うようになり、 | |
動物愛護運動の影響は払拭されつつある。 | |
とくに2000~2001年秋冬は、ニューヨーク、パリミラノ· | |
東京コレクションでは毛皮作品が豊富に登場し、毛皮がイメージアップする | |
シーズンとなった。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 65(JFA50年史より) | |
「日本毛皮協会」に名称変更 | |
1994年(平成6)6月27日、協会の名称を日本原毛皮協会から | |
「日本毛皮協会」へと変更し、それに伴い監督官庁は従来からの農林 | |
水産省と、通産省の共管となった。毛皮業界をとり巻く環境の変遷と | |
毛皮の大衆化を考慮すれば、「原毛皮協会」から「毛皮協会」への変更 | |
は必然的な結果と言えるが、製品団体として認知されることは長年の | |
悲願だった。 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 66(JFA50年史より) | |
戦後、原皮の輸出産業から再スタートした毛皮業界は、消費時代の | |
到来とともに製品の輸入産業へと業態が変容した。原皮輸出産業時からの | |
主務官庁、農水省からは指導·助成が得られなくなり、実質的には主務官庁であるべき | |
通産省からも指導助成が受けられないという“仲間はずれ”扱いがしばらく続一いた。 | |
毛皮の歴史 協会50年の沿革 67(JFA50年史より) | |
この間、協会はさまざまな課題を自主努力で処理してきたが、 | |
業界の拡大とともにそれも限界となり、業界内では処理しきれない | |
問題も増えていた。また毛皮製品が普及したのに「原毛皮」では | |
PR効果は薄いとの意見も多く、定款を変更(名称の変更を含む)し、 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 68(JFA50年史より) | |
心機一転、新しいスタートを切った協会と、その加盟社の権威を | |
確立するため「新JFAマーク」を設定し、さらに1948年(昭和23)に | |
創刊し協会の機関紙の役割を果たしてきた『毛皮新報』を廃刊、より幅 | |
広い分野の高度な情報を業界に提供すること使命として、新たな機関紙 | |
『JFA通信』(季刊)を発刊した。また、二十一世紀に向けて、強固な業界の | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 69(JFA50年史より) | |
◎世界の毛皮業界との密接な連携 | |
◎服飾専門学校との産学共同事業 | |
◎長期的視野に立ったデザイナープロジェクトの展加盟社および | |
服飾関係学生を対象としたセミナー活動の強化 | |
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毛皮の歴史 協会50年の沿革 70(JFA50年史より) | |
二十世紀最後の節目の年に、協会は奇しくも設立50周年を迎えた。 | |
IT時代に突入し、あらゆる産業において“新産業革命が | |
進行している今、毛皮業界は他産業と同様に興亡の大きな岐路に立っている。 | |
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しかし協会の50年という歴史をふり返るとき、困難は常に | |
つきまとっていた。幾多の試練を乗り越え、それをバネに発展を | |
遂げてきた。グローバル化の中で、協会は海外毛皮団体との国際 | |
的な連携を深め、高度化する消費者のニーズに応え、二十一世紀に | |
打ち出している。 | |
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